週末の遺言

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掛け算の順序問題に全く別の観点から終止符を打ってみた

古くから算数には掛け算の順序問題というものがある。後ほど具体的な例を提示するが、最近は割り算の問題でも、この順序問題に関わる問題が小学校で出題されているらしい。

この問題については様々な大人がそれぞれの立場で色々と議論を重ねているが、この議論には1つ抜けている視点があるように思えてならない。それは、子供の教育上最も避けなければならない事態は何かということである。

例えば下の画像を見てもらいたい。21 ÷ 7を計算するためには7の段を使用するらしい。

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この問題について肯定派の意見は大凡以下のようなものである。7 × 1 = 7、7 × 2 = 14といった具合に7の段の計算を進めていき、7 × 3 = 21となるのだから、21 ÷  7 = 3なのである…と言う論理だ。これは理屈にかなっている。確かに21 ÷  7を計算するために7の段を使用している。

一方で、否定派の意見は大凡以下のようなものである。3という数値は21 ÷  7を計算した結果として算出される数値であるのだから、計算の過程で使用している3の段を答えとする事はおかしい。計算に使用しているのはあくまで7の段であり3の段ではない…ということらしい。

上記のように意見が分かれるのも、7 × 3と3 × 7を同一として扱うか否かという、少し形を変えた掛け算の順序問題の形であろう。

ここまでは過去にも散々議論された通常の順序問題の議論である。しかし繰り返しになるが、最も重要な事は、掛け算の順序がどうあるべきかではなく、教育上最も避けなければならない事態は何は何かと言うことである。

ところで個々の子供には計算能力に差がある。例えば21 ÷  3 と問われた際に、時間をかけて計算する子供と反射で回答をだせる子供がいる。そして計算能力という意味では反射的に回答をだせる子供の方が少し上なのであろう。つまり計算能力の高い子供からすると、思考過程で使用するに過ぎない7の段というものは脳内で意識されることのないもの(反射)なのだ。そして、脳内で意識されないものをアウトプットすることが子供に求められてしまっているということだ。これは算数とは別の作業を強制していることになる。そこに子供は理不尽さやつまらなさを感じるのだ。これは大人でも同じだ。自分が感じたことや思ったことを正確にアウトプットするという作業は、それなりに重労働であることは分かってもらえると思う。しかも子供はこの重労働を算数という枠組みの中で強制されているために、より理不尽さに拍車がかかる。「これって算数なの?」と言うことである。

では結論に入る。教育が最も避けねばならない事態は、子供につまらなさを感じさせることだ。理不尽なものはつまらないのだ。答えさえわかれば過程は不要とまでは言わないが、子供につまらなさを感じさせる教育だけは絶対に避ける必要があるのだと考える。「算数って面白い!」「もっといろんなことを勉強したい!」と思わせることが教育の最も重要なことなのだから。

 

PS.無意識の思考過程をアウトプットする作業は教育上必要なのだという意見もあるだろう。しかしそれは算数でやるべきことではない。国語でやるべきことなのだ。これが国語の授業で行われ日本語の練習なのだという割り切りがあれば、理不尽さもある程度は解消され、子供にとってのつまらなさもある程度軽減されるのかもしれない。