週末の遺言

主に週末の遺言を書いています。

「よろしかったでしょうか」に問題がないたった一つの理由

1.ご注文は○○でよろしかったでしょうか?
 
店員が話す「よろしかったでしょうか?」という言葉にイラッとくる…という人がいる。「よろしいでしょうか?」が正しいらしい。
 
でもちょっと待ってほしい。言葉というものは時代に応じて変わっていくものだ。
 
なぜ「よろしいでしょうか?」は「よろしかったでしょうか?」に変わったのか?
それをもう少し考えたほうがよいのではないか?
 
2.接客のマニュアル化
 
答えは、接客のマニュアル化にあると筆者は考える。マニュアルには「お客様のご注文を復唱すること」と書いてあるのだ。
 
だが、この復唱には問題がある。
例えば、客がビッグマックのピクルス抜きとポテトのMとチキンナゲット(バーベキューソース)とアップルパイを注文したとしよう。
この場合は復唱することにある程度の意味があると筆者は考える。
なぜなら、注文した商品の数が多いため、確認する行為に意味があるからだ。
また復唱することによって飲み物が不要であるということの確認にもなるだろう。
 
では、客がアイスコーヒーのSのみを注文した場合はどうだろうか?
 
客「アイスコーヒーのSをください。」
店員「アイスコーヒーのSでよろしいでしょうか?」
客「うん、だからアイスコーヒーのSって言ってんでしょ!」
となりかねない。分かるだろうか?
 
たった一つの商品であってもいちいち復唱されれてしまうことに、客が不快感を覚えることは十分に考えられるのだ。また、たった一つの商品を復唱されることは、会話の流れとしても、上記の例のとおり、いささか不自然である。
 
そして、勘のいい若者(店員)は、その不自然さに気づいている。だから、いちいちアイスコーヒーを一つ頼む客に対して復唱など本当はしたくないのだ。つまり客に不快感を与えたくないし、自然な流れで接客をしたいのだ。
 
しかし、マニュアルには必ず復唱することと書いてあるし、そのように教えられる。
 
このジレンマに店員は立たされているのだ。
 
単品の客にいちいち復唱していては、不快感を与えかねないし、流れも不自然。でもマニュアルは復唱しろと…。
 
3.ジレンマの中で生まれた折衷案
 
そこで自然発生的に生まれたのが「過去形にする」という「折衷案」である。
 
復唱を過去形にすることで、マニュアルを守りつつ、かつ「あなたが注文した内容はちゃんと聞き取れていますし、理解していますよ。でも、マニュアルだから一応復唱しているだけなんですよ」というニュアンスを少しだけ加えることができるのだ。
 
客「アイスコーヒーのSをください。」
店員「アイスコーヒーのSでよろしかったでしょうか?」
客「はい」
 
どうだろう?少しだけ会話の流れも自然ではないか。
 
つまり「よろしかったでしょうか?」という言い回しは、マニュアルと現実の狭間という歪な状況におかされた店員(若者)が生みだした(というよりは、無意識のうちに自然発生した)一つのノウハウであり、マニュアルへの細やかな抵抗であるとも考えられるのだ。
 
これは一つの考え方でしかないし、もしかしたら間違った考え方かもしれない。
しかし、言葉が変化し定着したということは、必ずそこに意味があるはずなのだ。
意味のない変化は「流行りの言い回し」に過ぎず、定着せず淘汰されていくはずだから。