週末の遺言

主に週末の遺言を書いています。

あなたも踊らされている 〜おっさんというモンスターが使うコミュニケーション能力という禁忌の魔法〜

1.コミュニケーション能力を強いられる若者の不憫さ
 
コミュニケーション能力という言葉がある。
最近の若者が就職活動を行う際に、必ず聞く言葉だ。筆者はこの言葉に踊らされる若者が不憫でならない。
 
このコミュニケーション能力という言葉は社会や企業の中枢にいる人たち(以下、おっさん)が、自分たちに都合のよい言葉を作り出しただけのものなのだ。
 
つまりどういうことか?定義が曖昧すぎるのだ。定義が曖昧すぎるとはどういうことか?それは、客観的に測定することができないということだ。
 
言うならば、若者は客観的に測定することもできないものを、ただただおっさんから求められ続けるのである。
 
2.コミュニケーション能力を強いるおっさんの傲慢さ
 
では、何故おっさんは、この客観的に測定することのできないものを若者に求めるのか?
 
具体的には、二つの側面がある。
 
まず一つは、おっさんの独断と偏見で作為的に有無を決められるということだ。
おっさんと若者とでは、おっさんの方が立場が強い。立場の強いおっさんが「無い」と決めてしまえば、若者の側にどれだけ能力があったとしても、ないものとされてしまうのだ。これはおっさんにとって非常に便利だ。
 
もう一つの側面は、おっさんがおっさん自身を守ることができるということだ。立場の強いおっさんが「ある」と決めてしまえば、おっさんの側にどれだけ能力がなかったとしても、あるものとされてしまうのだ。やはりとても便利だ。
 
3.おっさんに時間を大切な時間を奪われないために・・・
 
お分りいただけただろうか?
 
この言葉は、おっさんが無条件で若者に勝ち、そして若者を叩くことができる、魔法の言葉なのだ。おっさんからすれば、こんな魔法の言葉を使わない手はないのだ。
 
ぜひ、若者にはこの魔法に踊らされないで頂きたい。
 
冒頭で、筆者はこの言葉に踊らされる若者が不憫でならないと書いた。
おっさんというモンスターが、この禁忌の魔法を唱えることで、勇者である若者達は、不思議な踊りを踊り続けることとなり、何ターンもの時間を無駄にするのである。
 
4.余談ですが・・・
 
さて、ここからは余談になるが、コミュニケーション能力という言葉は、細分化できる。
 
外国語のスキルもコミュニケーション能力と言えるし、複雑な事象を簡単な言葉に置き換えて、うまいこと説明する能力もコミュニケーション能力といえる。
 
また、複雑な文章を読んで内容を正しく理解することもコミュニケーション能力といえるし、昭和的価値観のまま生きている50代くらいのおっさんと仲良くする能力も、若者にとってはコミュニケーション能力と言えなくもない。
 
従って、細分化して使うことには大きな問題はない。細分化することで、ある程度ではあるが、客観的に測ることも可能かもしれない。
 
問題なのは、曖昧なまま使用することによって上記のような魔法効果が生まれ、若者が(不思議な踊りを)踊らされるということ、そしておっさんはそのチートな魔法効果に気付きながら、確信犯的に今日も禁忌の魔法を使い続けているということだ