週末の遺言

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クッパはなぜ吊り橋の上でマリオを待つのか?

任天堂のゲームは分かりやすいと言われる。それはなぜか?

ファミコン版の初代スーパーマリオブラザーズをご存じだろうか? このゲームではマリオは画面の右へ右へと進みポールにつかまることでゴールとなる。そして最後はクッパを倒すとピーチ姫を助けることができる。それがこのゲームの目的である。つまりゲームのプログラムとしての目的は画面の右端へ到達することであり、ゲームの設定上の目的はクッパを倒してピーチ姫を助けることなのである。

しかし目的が2つある事はわかりにくい。ここからが任天堂のなせる技なのであるが、任天堂はプログラムとしての目的と設定上の目的を同一のものとして消化していることにお気づきだろうか?

クッパとマリオが対峙しているシーンを思い浮かべてほしい。クッパはマリオの右側にいて、 なぜか吊り橋の上に立っている。 そしてクッパのさらに右側には斧が置いてあるのである。当然この斧は吊り橋を落とすためのものである。

最近のリアルなゲームを前提とする場合、このシチュエーションはご都合主義のように取られても仕方がないであろう。クッパが都合よく釣り橋の上にいるのはおかしいし、もちろんクッパの右側に斧が置いてある事はもっとおかしい。

ところがこれが、ゲームとしての目的と設定上の目的を同一のものとして扱うための作為的に作られたシチュエーションであると考えると非常に納得ができる。

つまりプログラム上の目的である右へ進むことにより、クッパと言う存在を乗り越えることができ、そのさらに右側に斧があることで、クッパを溶岩の海に落とすことができるのである。さらにその右側にはピーチ姫がいる。

逆に言えば、クッパは右へ向かうことによりマリオに倒され、 ピーチ姫はマリオが右側に向かうことにより最終的に助けられるというシチュエーションである。これはゲームがわかりやすくあるべき、シンプルであるべきという任天堂の思想に則った作為的なシチュエーションそのものであり、 このシチュエーションに対してクッパが都合よく吊り橋の上にいるのはおかしい」だとか、「都合よく斧が配置されていることはおかしい」などと注文をつけるのは非常に野暮な話なのである。

今後も任天堂は、シンプルで分かりやすく楽しいものを私たちに届けてくれるであろうし、ファンとしてはそれを今後も期待するものである。