週末の遺言

主に週末の遺言を書いています。

"最近の若者は元気がない" が口癖のあなたへ伝えたいこと

この記事は特に40代以上の男性(以下、おっさん)に読んでもらいたいと考えている。

 

あなたは「最近の若い奴が元気がない」と不思議に思ったことはないだろうか?

今日は、若者の立場から、その答えを直々に教えてあげようと思う。

 

まず、最初に言っておきたいのが、若者に元気がないわけではないということだ。

そもそも元気とやらの有無の傾向が、世代によって変わるとも思えない。

どの世代にも元気な奴もいれば、そうでないやつもいるし、誰だって元気なときもあれば、そうでないときもあるのだ。

 

そろそろ答えを教えてあげよう。

若者は元気がないのではなく、元気があるところをあなた達おっさんに見せない

ようにしているだけだ。理由はあなた達おっさんと仲良くしたくないからだ。

 

たったそれだけのことなのだ。なんのことはない。

最近の若者に元気がなくなったのではない。

最近のおっさんが若者に相手にされなくなってきただけなのだ。

つまりおっさんを主語に考えるべきなのだ。

 

「最近の若い社員は元気がないな」ではなく

「俺は若い社員に元気があるところをみせてもらえてないな」と

自分を主語にして考えてほしい。

そして、自分の何が悪かったのかを考えてほしい。

​禁煙から2週間で起こる体調の変化まとめ ~これから禁煙を始めるあなたへ…~

禁煙を開始してから2週間が経過した。
そのため、この2週間の体調の変化を、まとめておきたいと思う。
 
1日〜3日後
咳がでるようになった。
禁煙しているにも関わらず咳がでるというのもおかしな話であるが、色々と調べてみるとよくあることらしい。詳細ほググってほしい。咳はでるものの、それが禁煙によるものであるならば、悪いことではないので、そのまま放置。
 
3日〜7日後
肺が大きくなったと感じるようになった。
何をいってるか分からないだろうが、肺が大きくなったとしか言いようのない感覚。
一度の呼吸で吸い込める空気の量(要は肺活量)が増えたような気がする。
息も切れない。
 
また、時間が経つのが遅く感じる。
今まで煙草を吸っていた時間がなくなるわけで、その分の手持ち無沙汰はあるものの、その手持ち無沙汰が、逆に時間が経過を遅く感じさせているようだ。
 
これが個人的には一番嬉しい禁煙の効果で、普段できない色々なことをやってみようという気持ちにさせてくれる。だって時間が増えたのだから。
 
8日後〜14日後
全身にパワーがみなぎってくる。
このみなぎるパワーをどこにぶつけようかと思い、お酒にぶつけたところ、意識を失った。禁煙すると酔いやすくなるなどという話もあるようだが、酔いやすくなるのではなく、体力が増すだけであって、その結果、いつもよりたくさん飲めるようになる…というだけの話かもしれない。決してお酒に強くなるわけでも、酔いやすくなるわけでもない。
量が増えるのだと思う。
 
変わらなかった点
個人の収入や価値観の違いもあるため一概に言えるものではないが、所詮一日400円ちょっとの話であって、経済的なメリットは感じなかった。
また、食欲が増すという感じはなかったし、ご飯が美味しく感じるということもなかった。結局、何かを口に含みたいという欲求が、食欲に繋がっているだけなのだろうと思う。
 
今日のところは以上です。
 

「報連相」や「見える化」という言葉が気持ち悪くてたまらない件

1.「ホウレンソウ」とか「見える化」って気持ち悪い!

 

報連相という言葉がある。報告、連絡、相談をマメに適切にすることが重要だ…という話らしい。

 

言っていることはなんとなく分かる。ただこの言葉には独特の気持ち悪さがある。その気持ち悪さはどこからくるのだろうか。


同様に見える化という言葉にも、なんとも言えない不快感が筆者にはある。

この不快感はどこからくるのだろうか?

 

2.おっさん達の本当の狙いとは・・・


まずこの2つの言葉に共通することは、話者が上司(以下、おっさん)であり、受け手が部下(以下、若者)だということだ。

 

おっさんが若者にホウレンソウなり、見える化を強いているだけなのだ。


ではなぜおっさんは若者にほんれんそうや見える化を強いるのか?


それは端的に言ってしまえば、おっさんが楽をするためなのだ。ホウレンソウを強制しておけば、おっさんの元には自動的に情報が入ってくることになる。お気づきだと思うが、見える化についても同様だ。

 

つまり、自ら情報を収集することなく、放っておけば勝手に情報が入ってくる仕組みを作りたいだけなのだ。

 

このことに薄々気付いた若者は、これらの言葉に気持ち悪さを覚えるのだろう。

 

3.ホウレンソウの本当の意味


実はホウレンソウという言葉は、報告連絡相談をしろという意味ではなく、報告連絡相談をしやすい環境を作ろうというのが本来の意味らしい。つまり上に立つ立場のおっさんにこそ、ホウレンソウが課せられているのだ。

 

その本来の意味を理解せず、自ら動こうといないおっさんは老害と言われても致しかたなく、それが冒頭の気持ち悪さに繋がっているのだ。

 

「よろしかったでしょうか」に問題がないたった一つの理由

1.ご注文は○○でよろしかったでしょうか?
 
店員が話す「よろしかったでしょうか?」という言葉にイラッとくる…という人がいる。「よろしいでしょうか?」が正しいらしい。
 
でもちょっと待ってほしい。言葉というものは時代に応じて変わっていくものだ。
 
なぜ「よろしいでしょうか?」は「よろしかったでしょうか?」に変わったのか?
それをもう少し考えたほうがよいのではないか?
 
2.接客のマニュアル化
 
答えは、接客のマニュアル化にあると筆者は考える。マニュアルには「お客様のご注文を復唱すること」と書いてあるのだ。
 
だが、この復唱には問題がある。
例えば、客がビッグマックのピクルス抜きとポテトのMとチキンナゲット(バーベキューソース)とアップルパイを注文したとしよう。
この場合は復唱することにある程度の意味があると筆者は考える。
なぜなら、注文した商品の数が多いため、確認する行為に意味があるからだ。
また復唱することによって飲み物が不要であるということの確認にもなるだろう。
 
では、客がアイスコーヒーのSのみを注文した場合はどうだろうか?
 
客「アイスコーヒーのSをください。」
店員「アイスコーヒーのSでよろしいでしょうか?」
客「うん、だからアイスコーヒーのSって言ってんでしょ!」
となりかねない。分かるだろうか?
 
たった一つの商品であってもいちいち復唱されれてしまうことに、客が不快感を覚えることは十分に考えられるのだ。また、たった一つの商品を復唱されることは、会話の流れとしても、上記の例のとおり、いささか不自然である。
 
そして、勘のいい若者(店員)は、その不自然さに気づいている。だから、いちいちアイスコーヒーを一つ頼む客に対して復唱など本当はしたくないのだ。つまり客に不快感を与えたくないし、自然な流れで接客をしたいのだ。
 
しかし、マニュアルには必ず復唱することと書いてあるし、そのように教えられる。
 
このジレンマに店員は立たされているのだ。
 
単品の客にいちいち復唱していては、不快感を与えかねないし、流れも不自然。でもマニュアルは復唱しろと…。
 
3.ジレンマの中で生まれた折衷案
 
そこで自然発生的に生まれたのが「過去形にする」という「折衷案」である。
 
復唱を過去形にすることで、マニュアルを守りつつ、かつ「あなたが注文した内容はちゃんと聞き取れていますし、理解していますよ。でも、マニュアルだから一応復唱しているだけなんですよ」というニュアンスを少しだけ加えることができるのだ。
 
客「アイスコーヒーのSをください。」
店員「アイスコーヒーのSでよろしかったでしょうか?」
客「はい」
 
どうだろう?少しだけ会話の流れも自然ではないか。
 
つまり「よろしかったでしょうか?」という言い回しは、マニュアルと現実の狭間という歪な状況におかされた店員(若者)が生みだした(というよりは、無意識のうちに自然発生した)一つのノウハウであり、マニュアルへの細やかな抵抗であるとも考えられるのだ。
 
これは一つの考え方でしかないし、もしかしたら間違った考え方かもしれない。
しかし、言葉が変化し定着したということは、必ずそこに意味があるはずなのだ。
意味のない変化は「流行りの言い回し」に過ぎず、定着せず淘汰されていくはずだから。
 

あなたも踊らされている 〜おっさんというモンスターが使うコミュニケーション能力という禁忌の魔法〜

1.コミュニケーション能力を強いられる若者の不憫さ
 
コミュニケーション能力という言葉がある。
最近の若者が就職活動を行う際に、必ず聞く言葉だ。筆者はこの言葉に踊らされる若者が不憫でならない。
 
このコミュニケーション能力という言葉は社会や企業の中枢にいる人たち(以下、おっさん)が、自分たちに都合のよい言葉を作り出しただけのものなのだ。
 
つまりどういうことか?定義が曖昧すぎるのだ。定義が曖昧すぎるとはどういうことか?それは、客観的に測定することができないということだ。
 
言うならば、若者は客観的に測定することもできないものを、ただただおっさんから求められ続けるのである。
 
2.コミュニケーション能力を強いるおっさんの傲慢さ
 
では、何故おっさんは、この客観的に測定することのできないものを若者に求めるのか?
 
具体的には、二つの側面がある。
 
まず一つは、おっさんの独断と偏見で作為的に有無を決められるということだ。
おっさんと若者とでは、おっさんの方が立場が強い。立場の強いおっさんが「無い」と決めてしまえば、若者の側にどれだけ能力があったとしても、ないものとされてしまうのだ。これはおっさんにとって非常に便利だ。
 
もう一つの側面は、おっさんがおっさん自身を守ることができるということだ。立場の強いおっさんが「ある」と決めてしまえば、おっさんの側にどれだけ能力がなかったとしても、あるものとされてしまうのだ。やはりとても便利だ。
 
3.おっさんに時間を大切な時間を奪われないために・・・
 
お分りいただけただろうか?
 
この言葉は、おっさんが無条件で若者に勝ち、そして若者を叩くことができる、魔法の言葉なのだ。おっさんからすれば、こんな魔法の言葉を使わない手はないのだ。
 
ぜひ、若者にはこの魔法に踊らされないで頂きたい。
 
冒頭で、筆者はこの言葉に踊らされる若者が不憫でならないと書いた。
おっさんというモンスターが、この禁忌の魔法を唱えることで、勇者である若者達は、不思議な踊りを踊り続けることとなり、何ターンもの時間を無駄にするのである。
 
4.余談ですが・・・
 
さて、ここからは余談になるが、コミュニケーション能力という言葉は、細分化できる。
 
外国語のスキルもコミュニケーション能力と言えるし、複雑な事象を簡単な言葉に置き換えて、うまいこと説明する能力もコミュニケーション能力といえる。
 
また、複雑な文章を読んで内容を正しく理解することもコミュニケーション能力といえるし、昭和的価値観のまま生きている50代くらいのおっさんと仲良くする能力も、若者にとってはコミュニケーション能力と言えなくもない。
 
従って、細分化して使うことには大きな問題はない。細分化することで、ある程度ではあるが、客観的に測ることも可能かもしれない。
 
問題なのは、曖昧なまま使用することによって上記のような魔法効果が生まれ、若者が(不思議な踊りを)踊らされるということ、そしておっさんはそのチートな魔法効果に気付きながら、確信犯的に今日も禁忌の魔法を使い続けているということだ
 

尿管結石の前兆と疝痛発作~腹に石持つ生活のあなたへ伝えたいこと~ その2

前回の尿管結石の話の続きだ。

 

hqwerty.hatenablog.com

 

尿管結石とは、それが直接の原因で死ぬような病気ではない。ただし、疝痛発作が起きたときの痛みは、まとめサイトなどでたまに見る人類が経験できる痛みのランキング」などで、常に2位~3位に君臨する痛みなのだ。

要は、めちゃくちゃ痛いのに死なない…という病気なのだ。

そのため、めちゃくちゃ痛いのにも関わらず、医者の対応は結構ドライだったりする。

救急車で運ばれたとしても、「お大事にー」と言われて、最低限の処置をされたあと、そのまま家に返されるのだ。

もちろん手術などの方法はある。
体外衝撃波結石破砕術とか、軽尿道的尿路結石除去術とか…。この辺りはググって欲しい。

しかし、医者は手術をしたがらない。なぜなら、自然に結石が排出されることを待つことを第一選択肢とすべしと決められているのである。

そのため、前述の「お大事に~」という結果となるのだ。

そこからは晴れて、腹に石持つ生活のスタートである。つまり、水をたくさん飲みながら、尿と一緒に石が排出される日をただ待つ生活だ。

はっきりいってこの生活が精神的にかなり辛いのだ。何もしなければ痛くない。しかし、いつ突然に疝痛発作が襲い、救急車を呼ぶ羽目になるのかが分からないのだ。
その恐怖を常に抱えながら、日常通りの生活を続けることになるのだ。

これははっきりいって精神的にまいる。
石がいつ自然排出されるのかは分からない。
その分からない時を、ただひたすら待つのだ。常に恐怖を抱えながら…。

しかし、そんな石持つ生活にも、一つだけ、精神の安定を図ることのできるものが存在する。

それが仙豆だ。筆者は仙豆と呼んでいる。

その仙豆は、一般的にボルタレンサポと呼ばれているらしい。お尻に入れるタイプの仙豆、つまり座薬だ。

 

医者からは、「本当にピンチのときだけ使ってください」などと言われる。

数もあまり多くはもらえない。このあたりはかなり、仙豆っぽい。

 

だが、筆者はこの仙豆(ボルタレンサポ)は、ピンチのときにではなく、何かしらの予兆があったらすぐにでも使うべきだと考える。

 なぜなら、疝痛発作にも予兆がある。
一度経験したことのある人であれば、絶対に分かる。なにせ、人類が経験できる痛みランキングのトップ3常連ランカーなのだから。 「あ、くるな」という前兆は絶対に分かるのだ。その予兆を感じたらすぐにでも仙豆(ボルタレンサポ)を使うことで、疝痛発作を回避することができるからだ。持ち歩くだけで安心なのだ。

 

大事なことは

・予兆があったらすぐに使うこと

・医者からは、できるだけたくさんもらっておくこと

 

これさえ実践しておけば、腹に石持つ生活の中でも精神の安定が図れるのだ。

 

 

尿管結石の前兆と疝痛発作~腹に石持つ生活のあなたへ伝えたいこと~ その1

 

今日は数年前に経験した尿管結石について書きたいと思う。
予め断りを入れておくが、医学的に内容を保証するものではないので注意して欲しい。

尿管結石とはそれが原因で死ぬような病気ではない。ただ、まとめサイトなどで時々目にする「痛みランキング」で、1位か2位に食い込むアレだ。

現在、同じように尿管結石で現在苦しんでいる、もしくは今後苦しむであろうみなさんの助けに少しでもなればと思い、筆をとる。

前兆について
それは数年前のお正月頃のことだった。
前兆はあったのだ。なにかお腹に違和感を感じた。といってもよくある下痢の類ではなかった。トイレに行っても解決しなかったのだ。(腹痛はトイレに行けば解決するものと、そうでないものに分けられると勝手に考えている…)ただし、それほど対した痛みではなかったので放っておいた。それがいけなかった。

筆者が思う尿管結石の前兆は以下の通りである。医学的根拠はない。主観的なものだ。

・お腹がなんとなく少しだけ痛くなる。

・トイレに行っても腹痛は解消されない。

・そのため何となく便秘かな?と思ってしまう。

・痛みが体の中心線から左右のどちらかに少しだけ偏っている。

・一般的には脇腹が痛むとされているが、筆者の場合、脇腹という印象はなかった。

・なんとなく少しだけ頻尿になる。

前兆は以上だ!

検索などからこのブログにたどり着いた方で、万が一、上記の前兆が起きており、かつ尿が少しでもワイン色の場合、発作が起きていなくてもすぐに病院に行って欲しい。

前兆の段階で病院に行って、仙豆(後述する)をgetすることができれば、疝痛発作は回避できるからだ。 一人でも多くの方に、あの疝痛発作を経験してもらいたくはない。

疝痛発作について
上記の前兆から2日後だったと思う。
疝痛と呼ばれる発作が起こり救急車を呼んだ。
結石の疝痛については、多くの情報があるため、記載を割愛する。
なお、発作の前後で必ず血尿がでる。

検索などからこのブログにたどり着いた方で、万が一、上記の前兆が起きており、かつ尿が少しでもワイン色の場合、発作が起きていなくてもすぐに病院に行って欲しい。
一人でも多くの方に、あの疝痛を経験してもらいたくはないからだ。

基本的に結石で死ぬことはないから、疝痛発作が起きて救急車で運ばれたとしても「お大事に~」と言われて、最低限の処置をされた後、そのまま家に帰されることがほとんどだと思う。そこからは腹に石持つ生活が晴れてスタートするのだ。

ちなみに、前兆の段階で病院に行った際も、疝痛発作で病院に運ばれた際も同じだのだが、医者からは仙豆をもらうことになると思われる。仙豆は3粒から5粒くらいしかもらえないこともあるが、できるだけたくさん欲しいと主張するべきだと思う。

腹に石持つ生活の中において、仙豆は超重要アイテムだからだ。

腹に石持つ生活の中で仙豆が足りない状況は死を意味する。

(本当に死ぬわけじゃない)

では仙豆とは何か?
これは次回にでも書くこととする。